悲報

大兄・荻野利栄殿

1月14日帰らぬ人となられ、氷見市にとって大きな光を失った

上杉謙信の生き様を範として、まさに凛とした生涯でありました。

深くご冥福をお祈りいたします

その大兄より平成14年2月、自分史「戀闕」を賜った、

その序文を掲げ、師の人柄を偲ぶ!

  「戀闕」表紙

序文

人の記憶には五十年六十年と時が流れても、今も尚はっきりと思い出せれる事が

数々あるものである。その時のインパクトが強かったからだと言われるが、さほど

印象的でないつまらぬ事を憶えているとなると、不思議といわざるを得ない。

 私その思い出に綴り合せて、自分史を書こうと思い、筆をとったのである。

 秒速三十万キロメートルの光が、一年間かてて走る距離は約九兆五十億キロで、

この距離を一光年と呼んでいるが、もし私が八十光年の所に居て一瞬に地球を見た

時、産声をあげてないている私の姿を見る事が出来るかも知れない。大宇宙には何

千何万億光年の彼方に存在する星があるが、人間は更に其の向こうに何があるか興

味を持つのである。限りなき有を追求する時、有は限りなく無に近づき、遂には有

は無になるのではなかろうか。禅で色即是空、空即是色或は一即多、多即一と言は

れるのはこの事が又公案で全く同じ答を出したのに、一方は通り他方が落ちるのを

何と見るか。

 遠い過去のことをつい昨日の事の様に記憶している事も、不可思議である。絶対

に忘れてはならぬとしていた事が、遠くかすんで、つまらないことが記憶されてい

るのは何故か、自分にとっては記憶のつながりこそが、自らが知る自らの歩みであ

ろう。第三者にはつまらぬ事もあろうが、兔に角自分史の筆を起こすことにしよう。

宇奈比川 今も尚  加賀能登越の 国境  石動山の 分水嶺  天平の水 こんこんと  流して尽きぬ 宇奈比川  万葉時代の 歌人の  越中国司 家持が  鵜飼の様も 偲ばれて  清き流れは 限りなく  今を昔に つなぐ川           利栄

あとがき

 カーラジオのスイッチを入れると年老いてからの生き方は上手に捨てる事だと話

をしていた。高峰三枝子は五十歳半ばにして女優をやめた。周囲からは惜しむ声が

上ったが本人はさらりとしていた。そして欲しがる人には投げ与えて拘わらなかった。

 捨てる事の達人は良寛和尚であったと

 私はガーンと頭を殴られた思いがして自分史も捨てるべきだったかなと思いつつ

も最後の我が儘を通すことにした。自分史は生きていた時の足跡と言う人もあり捨

てるが是が捨てざるが是かわからぬままの暗夜航路の迷い海の中に居る。

 結局のところ為る様にしか為らぬであろう。         利栄





      
  慶応同期 塩川氏と会う(昭和58年)          氷見市議会に出て(昭和57年)


拙著「寶」本を差し上げ、返本の「戀闕」のあとがきに、

御手で彫った、「陰見師」の呼称の印影を掲げ、一筆賜った。

市長の新春対談に、お金を残すは下、仕事を残すは中、人を残すは上と

話しておられた、まさに故人の凛とした生涯は、多くの人の範となり、心に深い感銘を刻んで逝かれた。

恐れ多い事であるが、縁あって知遇を得、師から深い深いご教導を賜った。

師の恩名は拙著「寶」本にも掲げさせていただいた。

HP掲載を惜別の挨拶に変え今一度ご冥福をお祈りするものです。               

            平成17年1月16日         合掌・黙祷

                                              荻野塾落第生・平成承禎