ありがとう少女A

一昨年の12月から昨年12月26日まで、21才の女の子を母親と異父の姉

そしてその姉が勤務する会社の社長の了承を得て、1年間お預かりした。

A子は重度の分裂病であつた。

A子を連れてきたのは、ある店に勤務していた時に面識のあったB子で、この子も対人恐

怖症・潔癖症であった。

二人は、共に精神科医にかかり、薬を服用しており、市の更正施設で知り合った仲であっ

た。

更正施設の所長と、市の保健センターの担当事務職員にも誤解があってはと、預かる事を

事前に伝えた。

A子は母親と異父姉妹の姉とその二人の子供(姪と甥)、そして週末に帰宅する実兄を入れ

ると6人で公共アパートに住んでいた。

母親も分裂病で自分の娘(A子の義理の姉)に生活を頼っている。

即ち、母親もA子もその姉に養ってもらい、公共アパートの狭い住居スペースで生活して

いる。

しかも母親も義理の姉もA子の父を憎んでいる事を言葉に出してA子に話す。

A子の自活力はゼロに等しく、義理の姉に全面的に依存するしか生きる術は無い

父親を傷つけられても、反抗もできない。心の中で泣いているしか術は無い

病院へは、義姉からだけの症状報告だけで、担当医は強烈な薬の量を与えていた。

そのため午前中は殆ど芋虫状態で生活してきた。

まともな人間でも、まともな精神を維持するのが困難な状況下である。

A子に過去の事、父親のこと、自分の思いなどを作文にかくよう命じた。

悲惨な少女期を過ごした事が書かれてあり、胸が痛んだ

末尾に一部を掲載しておくが、その文面の筆力に斑(ムラ)が有り、たどたどしく、精神

の状態の酷いのが一目瞭然であった

作文によると小学4年生頃まで父親と一緒にいたらしいが 、父はテキヤで再婚したらし

く、今は行方知れずとの事である

そんな父親でもA子は胸の中で愛する父親を大切に大切にしまっている・・・・その父親

を家族全員が傷つける・・・・。

現代病である精神病の根本原因と考える私の父親不在、父権の喪失以前の問題!

その事を精神科医も施設の担当職員も全然、理解していない!

そのことも私が引き受ける大きな要因であった。

Å子は父親の両親も母親の両親の住所もそして両親の祖父母に会ったこともないとの事で

あつた

心の中の父は傷つき、幼き頃から母親は祖父母、先祖をないがしろにしている。精神が病

むのは当たり前である、心の中に柱が無いのである。また先祖祖父母を軽視は、心に根が

張って無いのである!

私は借家、アパート賃貸の仕事を15年以上携わって来た関係で、精神を病む子供を多く

見てきた、また私の身近にも何人も知っている

それらの原因のほとんどが、父権の喪失、母親に問題があると、常々思っていたからであ

る。

その事を、「知的生活」の著者・渡部昇一・「ゴーマニズム宣言」の小林よしのり氏も指摘

している。そのことに信念に近い確信があつたからである。

このHPにのる「世相を切る」の中で現代の母親達を切っている。

殆どの知識人もこの現代の若者が病む、その病根に気がついていない。

・・・・・かすかな希望はある・・・・なんとか父親の代役ができないか・・・!そんな

思いが私にあった。

彼女の父親はヤクザである、恐らく想像だが、生きる事の下手で、一本木の性格で根性の

良いタイプ・・・、その娘である、疑う事の知らない純粋な子で、私をお父さんと呼んで

なついてくれ、事務所の二階で奇妙な共同生活を始めた。

独り者の私には、食事の用意、洗濯、掃除、それに若い子と一緒にいて心が明るくなる事

がいいと思う半面もあったからである

変な関係になって面倒が起こる事は、この年になって金輪際ごめんである。

三度の飯より?!大好きな女性であったのに、このHP世相を切るに、現在の私の女性観

が載る様に、今は女性恐怖症、アレルギー反応が酷い私です。それでも心に鍵をかけての

生活であった。

繰り返すようだが、一緒に住む前にB子と遊びに来ていた時、彼女の育った家庭環境その

他を聞き、家族の接し方、環境の悪さ、精神科医と市担当員の対応、彼女の義姉の考え方、

その他に大いに疑問符があり、何とか社会で働ける子にしてあげたいと強く思ったからで

ある。

投薬だけでは治癒は無理、また市の更正施設に通っているだけでは、自立は到底、無理と

感じたからです。

純粋病理学的見地は別として、A子の病気の根本的問題点を精神科医も更正施設の職員も

全然理解していないように感じられたからである

迷いもあった、もし預かっている間に、発病、事故、また自殺などの突発事故などが発生

したらどうするのか・・・・・・・内心不安で一杯であった

また、世間の目もある、・・・・・更に家業も再建途中である、急がねばならない「寶」本

の事もある・・・・。

逡巡する私を決定的にしたのは、泊まりに来て2週間程度だったと記憶しているが、一度

家(4階建ての雇用促進住宅アパート)に帰したとき、A子から、私の携帯電話に4階の

窓から飛び降りそうな衝動になって、お父さん助けてー、今すぐ迎えに来てと、悲鳴に近

い叫びの声が入った。

車を飛ばし迎えに行った。そしてそのままA子は家に帰りたくないと言い、数日後義姉の

会社の社長にも承諾を取り、預かる事にした。

それ以前、高岡の市民病院の精神科にかかっていたが、地理やバス利用の経験が乏しく、

1週間に1度、私は4ケ月程、車で送り迎えをした。

何よりÅ子が病院のロビーなどで、人が私を見ている、そして囁いている、死ね死ねと言

っている。幻聴が聞るというので、目がはなせなかったのである。

預かっている間に万一があってはと、内心不安で一杯であった。

最初の頃、薬は赤い色の玉薬と睡眠薬であった。

赤い玉の薬は強烈で、前の晩に飲んで、翌日の昼過ぎまで、頭がボーっとしているのであ

ろう、目が虚ろで、話は少しロレツが回らず、朝の10時・11時まで芋虫の様に寝てい

その頃、私の幼い頃からの友人C君で、強度の分裂病の人を立ち直らせ社会復帰させた経

験をもつ彼にも、協力をお願いした

A子には、叱ってくれる父親すら、居ないのである。

C君と相談して、私はムチ役、C君はアメ役に徹しようと決めた。

私はなるべく頑固親父を通した。だらしない男としての父親の姿も見せた。

意識せず、自然な暮らしを心がけた!

義姉、保険所の職員などの報告を全て鵜呑みにして投薬する医者への不信感から、睡眠薬、

そして薬の量をA子の状態を見ながら、私とC君と勝手に減らして見た。

そんな繰り返しを何度か試みて、A子の症状に少し自信がもてるようになり、先生にA子

自身の口で薬を減らす事を先生に、相談させた!

内心なかなか、真面目で誠意のある担当医と感じてはいたが、A子の義姉と厚生施設から

の事情説明に誤解が生じ、薬の軽減に応じず抗議したが、家族でもなく法定保護者で無い

私を、頭から相手にしてくれず、抗議にまでおよんだ!

病院を変える事も考え、B子の病院に相談に行った事もあった

当初4ケ月程は色々な事が生じたが、何とかA子は生活になじみ、安定しているようであった。

若い娘である、他人の家で食事している!お父さんと呼んで自然に振舞っていても、気兼

ねがある筈である、口には出さないが、私に対して完全には心を許していないのは当然の

事である。しかしそれでは彼女の心の病気に楔(くさび)を打ち込む事ができない。

そんなA子が、原因は忘れたが、ある日、お父さんそれ間違っていると、真剣な怒りの表

情で、私に猛然と抗議してきた!私はうれしかった!初めて私を父親として心を開いてくれた

と・・・・・・仕事の事で頭一杯で、私が何かいい加減な返事をしたようで、私は謝った!

後からA子も私に言い過ぎを謝った、その頃からA子は生理が来た事、快便の事など、女

の子として恥ずかしい事も、私に自然と話すようになつた。

そんな親子喧嘩がもう一度あった。

兎に角、10ケ月を過ぎた頃、介護の学校へ通わせる事にした。

そして、暮れに試験にパスし、古くなったノートパソコンを与え12月に家にお返した。

やがて2ケ月になろうとする、A子は現在私が紹介した介護施設に、週2回元気に働いて

いると、施設の園長から聞いた。

A子の去った後、今度はB子が遊びにきている。昨年A子と時期を同じ頃B子も更正施設

へ通うのを止め、昨年暮れ頃からコンビニに勤めている。

B子は祖母に育てられた子で、父親は大変真面目な人柄と見受ける。

幼い頃からB子の心の中に、大きく占めていなければならない父親の存在が、小さかった

事が原因のように私には思える

A子もB子もいじめに遭ったというが、心の病の大きな背景には、父親不在、父権の希薄

が底辺にあると、渡部昇一先生、小林ヨシノリ氏同様、私は考える

まだ幻聴もあり、A子にどれだけ、偽装父親が占めているか疑問だが、兎に角、1年前には

想像も出来ない程、前が開けてきた事だけは確かな事である。

このHPの「世相を切る」で指摘しているように、子供が精神を病む底流に父権の喪失、

母親の妻としての問題が渦巻いている。A子はその典型である。

A子が私の所に来たときの手紙と去るときの手紙を載せてきます。

その筆力の違いで、A子の状態を感じてください。

私として、A子に楽しかった1年ありがとうと言いたい!そして後は心の中で、達者で生き

て行く事を祈るしかない。

                                                                        以上

                                                                                     平成17215

       来たときの手紙

     
           お別れの手紙