親父の思いで
今日6月18日は父の日であるという
私の父親は3年前、確か88才で世を去り、既にこの世にはいない・・・・・・・
私は今年還暦を迎える
父との思いでは少ない!・・・・ようで多い
父との触れ合いは少なかった・・・・と言うより無い!!!!!!
・ ・・・・・・・・・・
釣り、キャチボール・旅行・・・・無い!!!!!!!!!!!
・ ・・・・・・・・・・・・学校の運動会、父兄参観・・・・・・記憶に全く無い
・・・・・・ムムムムムムム・・・無い
それでも触れ合いは十分過ぎる程感じている
・・・・・・・・・・・・・・・
むしろ何も言わなかった事がこの年になって、一番会話があり、親子の触れ合いが他の兄
姉妹よりあったのではと思うようになった・・・・・・・・・!!!!!!!!!
・ ・・・・・・・・・・・
不思議なものである!
・ ・・・・・・
最近心の中で父親と対話する機会が多い
・・・・・・・・・・・・・
誰でもそうだと思うが、父親より家を守っていた母親との触れ合いが断然多い
父親は黙って背中で語る
私の父は55才頃まで良く働いた
55才頃プッツリ働くのを止めた
母親の店番位であった
そしてヘボ碁と趣味の書と絵を描いていた
パチンコ・マージャン賭け事は一切しなかった
働かなくなっても、子供4人父親が十分働いて来た事を暗黙の中で分かっていた
人の倍程働いたのを肌で感じていた
!!!!!!!!!!!!!!!!
今思うに、総じて誠実、真面目で明るい人であった
また気の小さい人であった
頭は悪い人ではなかったが、切れる人でも無かった
普通の人間、
善良な人間であった事は、間違いない!!!!!!!
人と喧嘩をする人では無かった
温厚であった
その点で遠く及ばない
・・・・・・・・・・・・・・間違いなく
また信仰心の厚い人であった
一時我が家は「生長の家」を信仰していた
家でも講師を呼んで「生長の家」の集会を開いていた
それでも宗教に凝り固まる人でもなかった
私のように癖のある人間でなく、ごく普通の人であった
善良な人であった
父親の親、私の祖父とは同居していたが、悪口も愚痴も一切聞いた事がなかった
今思い返しても不思議な事に、二人の親子の会話している場面を見た事が無かった
・・・・・・・・・
酒は好きであったが
大酒のみでは無い、
晩年毎日欠かさず、コップ酒1杯、お冷!であった
外で飲むことも無かった
自制していたのである
酔いつぶれた姿も一度も見た事が無かった
女遊びもする人でも無かった
没落した我が家を再興しようと、もくもく働いた
私が子供の頃、炭屋をしていた
現在の、この事務所が昔、炭屋の倉庫であった!
トラックで運び込まれた炭を、天井まで積み上る父親の元気な姿を今も思い出す
プロパンが出てきて、爆発すると炭屋を辞めた(笑い!ホント)
気が小さかったのである!
人を使うだけの器量も無かったのは事実であろう
野心家では無かった
母親が呉服屋(当初は古着屋)を開店し、父親は徐々に行商に転じていった
どんな品物を売っていたか詳しくは知らないが、主にゴザなどを売っていたらしい
貨車で送り、遠くは青森、
小学校1・2・3年生頃であろう?逆算すれば昭和30年前後、美空ひばりの「リンゴの歌」
の頃か??・・・・・ナ
子供の頃、もみ殻に詰まったリンゴと干し昆布が行商先から送られて来たのを覚えている
段々年数が経つと、行商の地域も変わってきたのを、今頃になって分かる
景気の良い地域を考えていたのであろう!!!!!!
私が小学から中学の頃は高山あたりに行商していた筈
背中に背負って売り歩いたらしい
父親は行商に行くとき新しい下駄を履いていった!
それが、行商から帰ってきたら下駄の二の字が磨り減って、板状になっていたのを覚えて
いる
また下駄の表に、足指の跡がクッキリ食い込んでいたのを覚えている
どれだけ歩いたのか想像もつかない
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返って来たときの下駄を通して、子供心に、親父の仕事の厳しさを感じていた
・・・・・・・・・
行商は現金商売である
長い時は20日位、普通は10日前後!帰って来た時、ナイロンの袋に千円札と百円札が分
厚く、あったのを覚えている!
母親はお札のシワを一枚一枚丁寧に伸ばしながら数えていたのを今も覚えている
最盛期の頃の、親父の誇らしげな顔が今も目に浮かぶ
(現在6月20日1時50分、星は見えない、代行の車の音が騒がしい)
生まれてから私に只の一度も勉強しろと言った事が無かった
・・・・・・・・・
母親も、そして祖父もそうであった
・ ・・・・・・・・
今思うに不思議である
・・・・・・・・・・・・・
そして私に怒った事も無かった!
・ ・・・・・・・・・
子供の頃理由は忘れたが母親に一度だけ、もの凄く叱られた事があった!
恐ろしかった!!!!!!!!!
それ一度切りであった
高校時代の3度の処分を喰った時も、父親は何も言わなかった
不思議であった
・ ・・・・・・・・・
亡くなった兄が子供の頃父親に叱られ泣いていたのを一度だけ見た事がある
それを考えるに、子供に無関心であったわけでは無い
・・・・・・・
私は、おじいちゃん子で、祖父に育てられた
それでも父親が幼い私に武者絵を描いて絵心を植えつけた
だから小学生時代、学校の写生大会では何時も賞をもらっていた
勉強もスポーツも駄目、だから小学校時代、写生大会だけが私の自己主張の場であった
父親は骨董品収集が趣味であった
父親の祖父の時代、我が家(本家が絶えて我が家が本家を継ぐ)に相当な美術骨董品かあった
と言う
米相場の暴落で財産を全て売り払った時、骨董品を売り払った悔しい思いが、父親の心の
原点であった
何人もの骨董商が来て数日セリが開かれ山ほどの人が来たと言う
当時家に朱の大瓶が8ツ程あったと言う
・ ・・・・・・・・・・・・
祖父も父親も大往生!
祖父は眠るように死んだ
祖父の時息を引き取るまで横にいたが父親の臨終の場に立ち会っていない
母親に聞くと眠るように死んだとの事である
私に大往生は到底無理
のた打ち回り、遂には断末魔の最期であろう・・・・・・・
人生完全に赤点である、そして性の強い分・・・・・・・・・今から覚悟していなければ
ならない
・ ・・・・・・・
母親は生涯父親の悪口、陰口、只の一度も吐かなかった
父親を尊敬していた
その点では母親に花丸、二重丸を差し上げたい
私が離婚を決意したあと、父親の病院へ見舞った
預かっていた骨董品の一部持ち去られた事を伝えた
父親は何も言ずに、離婚裁判の請求用紙に黙って押印してくれた
悲しい目をしていた
我が家は祖父も、父親も愛妻家であった
仕方が無いとはいえ親不孝をしたと、今も胸が疼く
・ ・・・・・・・・・・
父親が骨董収集に執心した事が、「寶」に巡り合う伏線である
兄も最期は殆ど骨董商であった
その点で兄弟共々、父親には感謝である
氷見の山奥から出てきて、借家に住まい、家を建て、蔵を建て、蔵には一杯の骨董品を貯
めた、そして子供4人共高校に入れた
十分父親の責務を果した
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引き換え、私は不肖の息子であった・・・・!!!!!!!!!!!
私は母親の血が完璧に濃い
兄は4分父6母・・・私は母8父2の割合!!!!!!
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この年になって、父親に心配と迷惑をかけたことが分かる
・・・・・・・・・・・・
申し訳ない気持ちで一杯である!!!!!!!!!!!!!!
只只ありがとう、の言葉を、心から贈りたい!!!!!!!!!!!!
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父親には100点を捧げたい
臨終に立ち会う事が出来なかったが、改めて亡き父親に感謝したい
臨終の時、家業の事と葬式の段取りで一杯であった
妹の時も兄の時もそうであった!!!!!!!!!
(原稿の仕上がりは日が過ぎました)
近いうち、祖父・父・兄の所へ酒でも持って、墓参りするか!!!!!!!