古老の話によれば、明治元年の窪新川堀の時の総監督は大門の人、 十村役笹間作五郎であった。この人は明治八年の地券改正の時に運動して、 三六町あった十二町潟全部を払い下げてもらい、事故の私有物とした。しかる にやがて笹間氏が没落し、他人(鞍骨の高木三郎だという)に売った。これは 潟廻りの村々一四か村にとっては死活問題である。笹間が所有するので あれば致し方ないが、他の個人所有になるのであれば黙っておれぬ。 こうして潟廻りの村々の奮起となり、高五石(一,八〇〇円だったという) を売って十二町潟を買ったという。時に明治十年五月であった。

十二町潟(現在、水郷公園)