★★★
『大伴家持』廣澤虔一郎
巻末年表によると家持の生まれたのが718年である
中国で「寶」が焼成なったのが742年
家持24・5歳頃である
越中の国守として赴任してきたのが746年29歳
安史の乱がおきたのが755年、
鑑真和上来日はその前年とある
そのころ家持は越中の国守として氷見に来ていたのである
子供の頃遊んだ町内「上日寺」の高札によれば創建が白鳳10年(681年)であると云
う(私として、この年の記録は多少?!これである)
それでも!なるほど、なるヘソ、である
以下は日中・太平洋戦争時ラジオで繰り返し流された歌と言う
「海行かば、水漬く屍、山行かば草生す屍、大君の、辺にこそ死なめ、のどには死なじ」
うろ覚えのこの詩は家持の詩とは知らなかった
私にもかすかに記憶ある歌である
万葉歌人・家持は氷見市に縁深き歴史上の人である
浅野総一郎・斉藤弥九郎の本は読んだ
能面師・氷見宗忠の歴史小説は無い
家持に関する雑学は、色々見聞きしている
しかし詳しく知っているかと言えば自信が無い
最後に家持の本くらい舐めておかないと氷見人として笑われる
しかしこの小説には氷見の記述が殆んないに等しい
期待が外れた
氷見の郷土史家の方々、続家持「氷見滞在記」と銘うった小説を書く人いないかナ・・?!
それでも氷見市に縁深き家持さんに敬意を表して★マーク
一応「寶」の時代の、裏打ち大和の喧騒は聞こえた
それにしても歴史小説家は大変である