パテント再チャレンジ
当初から千里ブロックの施工業者となる事が私の目的では無かった
あくまで、私の目的はパテントの全国制覇であった
工事を始めて恐らく2年目に入る頃の初期段階の時期であったろう・・・・
市内にチラホラと施工現場が見えるようになった頃、市内の井戸堀業社のHがこのブロッ
クに着目した
Hは3年程前、癌で故人となった。
・ ・・・・・・・・・・・・・・死者に鞭打つ気は無い
それでも、私の人生を語る上で、白紙にして通る事のできない人である
Hの存在がなければ今日の私は無い
ある意味Hと出会わなければ、私は何年後かにモット大きな敵に遭遇し再起不能になって
いたであろう
まだ若かったから瀕死の中から立ち直る事ができたのである
私の長い間の朋友、金田は勿論、多くの者がHとのその後の壮絶な戦いを知っている
今になって・・・・誰かがあらかじめシナリオを書いて、私にHを引き合わせたのではな
いか・・・・・・そう疑い遠くを望む時がある
私より5才位年上で、私と同じ裸一貫の男であるが、すでに商売はそれなりの基礎段階を
終え、儲かりそうな商売なら、あらゆるものに触手を伸ばそうとする物凄い野心家であっ
た
井戸掘り業の他に近所の人も普通に入れる食堂も経営していた
中学校前の自宅横である
若くて分からなかったがHの金に対する執着は異常であった
家の前の中学学生でも入れるその店に、当時アダルトグッズを販売していた程の人間であ
る
・・・・・・・・・・・・・・・・
Hは法律の範囲ギリギリの所で伸ばした男であった
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
悲しいかな典型的な氷見の事業家、事業モラルなど無し、儲かれば良しの男であった。
前置きはそのくらいにしてこの話を進めよう
Hと念願のパテント契約を結んだ。
彼は契約時、ろくに契約書も読まず、実印を私に渡し、契約書の何処にでも押印していい
よ・・・と言ってその場の席を外した
若い私でも実印の怖さを知っている
20分程であろうか返って来た
・・・・・・・・・・・・・
そのあと義父が色々技術指導をした事は言を待た無い
そして数ケ月後、Hはブロックのジョイントの形状を変えて、自分の考案として事業化に
乗り出したのである
しかも、ズブの素人のサラリーマン2人と気がついた時には既にパテント契約を結んでい
たのである
・・・・・・・・・・参った
実印を押した契約書であっても、契約書を初めから守る気の無い男が世の中にいる事を知
った
・・・・・・・・・参った
契約金額が少ないのと、形状が少し違う
特許庁出願は意匠登録である、
形状が違っては争え無い
契約金額と弁護士費用との計算が合わない
・・・・・・・・・・
尻では無い、私の頭に烈火の如き火がついた
単純、純情、幼い・・・・・Hはある意味商売の常道をしただけなのかもしれない
しかし背信行為、裏切りでもあった・・・・・・
顧客の争奪戦・・・・・戦いの火蓋は切られた
死に物狂いの戦いであった
・ ・・・・・・・・・・・・
そして数年後完璧に私はその戦いに勝った
Hの契約した下請け2人は数年後廃業に追い込まれ、甘口に乗った一人は借金で家を売っ
た
・・・・・・・・・・・・
そのころであろうブロックの販売量はHとの壮絶な戦いあって、最早義父の製造量ではと
ても追いつかない状況になっていた
まだ乾いていない製品まで出荷の状況であった
義父と息子と二人の最大の生産量では、私の販売の半分にも及ばない状況になっていた
相前後してHの後に、■義父の工場からブロックを運送してもらっていたK運送業者が需
要の逼迫を見て是非製造販売させて欲しいと申し入れて来た
義父は
その後、■県内大手である日本工業規格指定工場(JAS)である日本間知ブロック株式
会社と契約の運びとなった。
さらに冬の閑散期に営業した新潟の■セメント瓦製造のM社契約の運びとなった
施工を開始してほぼ5年間で陣容を整えつつあった。
当時義父は70歳位であった。
実の息子に精神を病んだ息子がいた
その息子が結婚も出来ず父親製造の手元をしていた
私は義理の弟である彼の将来を心配していた
父親が倒れたり、製造に従事できなくなった場合の心配をしていた
そんな折、地元のY氏が是非製造したいと名乗りをあげた
■私は、義理の弟を使ってくれる条件に義父の反対を押し切って契約した
それが二人の決定的亀裂を生んだ
義父は息子の事も、娘の事も考えず自分のことしか考えない人であった
・ ・・・・・・・・・・
結局Y氏とは破談になった
これも胸の痛む結末となった
義父がなくなったと羽咋の日建コンクリートと契約をした
義父の実家を約10年近く支えた
間違いなく
それらのロイヤルテー契約書は私の人生の記念碑として今も大切に保存してある
まさに満載した土砂を積んだダンプが列をなして走る、列島改造の歳月であった
今の糖尿病の自分から想像も出来ない男盛りの時代であった
餃子にビールと大盛りのラーメンライスをペロリと平らげる、土方の時代
酒も仕事も(女女?)エネルギーが最高の時代であった
・・・・・・・・・・・・・・・・。
少し遡るHとの戦いの頃、母親との確執、また子供の教育もあり既に妻は呉服店から身を
引き、千里ブロックだけの殆ど単純な経理を担っていた
工事現場も富山、新湊、大門、小矢部、福光、高岡、羽咋、一番遠くは金沢であった
工事現場は最終的に氷見が6割、市外が4割であった
雪解けの3月から田植え時期5月まで戦争であった、
新潟の工場以外、氷見工場、大門の日本間知ブロック、そして義父の工場、3つの工場生
産の80%は私が殆ど引き取っていた
晴れの日も、雨の日もスコップ片手の土方と営業であった ●土方の漫画いれる
・・・・・・・・・・・・・
田植え前の春先と稲刈り後の秋が勝負であった
冬場は大工や工務店への営業、そしてパテント契約工場の営業などであった
また夏場の穴埋めに、後、小矢部の吉田工務店社長に可愛がられ小矢部中央病院裏の吉和
台団地の現場を5年近く通った
7・8年程経った頃であろうか、列島改造ブームにも陰りがでてきた
ダンプの数もめっきり減ってきた
契約していた新潟工場が倒産した一報が入った
明確に秋風を感じていた