販売施工編

高校は商業高校

サラリーマン時代は現場事務、ペンとノートだけである

そして家業は呉服店

それまで重いものを持つ仕事は一切していない

千里ブロックは規格50キロ・45キロ18キロの3ブロックの組み合わせである

しかも商品が組み立て式のブロックである、全て人力でする力仕事である

戦場となる氷見市1ケ所も施工した現場が無い

仕事道具も一切無い

しかもトラックも無い

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普通の人間が見たら無謀以前にアホと思うだろう

マア正真正銘のアホだから、納得である(笑い)

兎に角、第一号を営業して氷見に現場見本を構築しなければならない

出来れば5段積みの、次の顧客が見て見栄えのする現場が良い

丁度おあつらえ向きの埋め立て用地があった

記念すべき第一号である。忘れもしない

それは朝日ヶ丘農協の裏の、M会社の工場用地である

50メートルで高さは約2メートル5段積みである

私はM社長に千里ブロックの強度と安さを一生懸命力説した

しかし氷見に一箇所も無い

私はM社長を車に乗せて羽咋の施工現場に案内した

羽咋にも現場は数箇所しか無い

しかも羽咋は殆どが砂地

氷見は殆どが田、泥地である

しかも朝日ヶ丘の現場は背後が山で地下水が流れ込む軟弱地盤である

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M社長が承諾してくれるか内心は不安で一杯であった

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しかし私の情熱が通じたのか、OKの返事である

!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

実はそこからが大変である

まず、工事用の道具を買わなければならない

酷いものである

スコップ数丁、クワ、一輪車、金槌、クギ、コマ糸、思いつく最小限の道具を買い入れる

仕事は決まったがブロックを羽咋から運ばなければならない

製造の義父の所にトラックは無い

当時は運送まで頭が回らなかった(ホント)

同級生に石材店の友達がいてトラックを何とかお願いした

今でも鮮明に覚えている、友達のギヤマンガラスに手伝ってもらってのピストン輸送であった

50メートル5段積みであるから、主ブロック250控ブロック250、それに抑えのバットレス

ブロック
250を運ばなければならない

ワンセット約100キロ総トン数約25トンである

普通トラックであったから、何回往復したか記憶に無い

更に良く考えると施工の手元が居ない

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常用の人間を雇える力は無い

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アルバイト・・・・・・・

しかも土木知識、または経験のある人間

どうして、知り合ったのか今でも思い出せない

声を掛けたのが高校生、しかも二上高校の土木課3年の二人であった

夏休みであった

義父の話だけで、積んだ経験が無いのである

酷い話である

これを書きかかって昨日その現場第一号を見てきた。

勿論倒れていない

25年程まえの夏の懐かしい思い出が蘇ってきて、感無量であった

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とにもかくにも工事は完成した

そこは背後が山で、しかも軟弱地盤であった

私に大きな自信が植え付けられた

しかも在来工法の玉石工法、また公共工事の主流工法である自重方式の他商品よりも、

軟弱地盤でも耐えられるセールスポイントが確認出来た

角度を測るスラントや、高さを計測するレベルなどもアルバイトの生徒に教わった

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初期段階の工事の話だけで、爆笑の原稿が何枚もかける

今はそれを話している時間は無い

かくて千里ブロック土木業としての約10年のスタートを切った

今でも時々古い飲み屋のママが「千ちゃん」と呼ぶ事がある

それほど、売ったのである

直接工事は恐らく一年40ケ所として400ケ所、下請け委託も入れると約十年1000ケ所近

くの工事と勘案している

平均40メートル工事で25段積みとした場合

40×2 5×100010万メートルの距離である

100`の距離である

まさに千里ブロックの名称通り、売りまくったのである

この間の苦労話は、浪花節である

50キロの体が最高59キロ、筋肉質の体を作り上げた

「寶」解明に10年間、平均睡眠時間4時間を切る体と精神を作ったのである、

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ラーメン・ライスの美味しかった事、

遠くは富山、小矢部、福光、新湊、羽咋まで工事をした

工事現場は1つ1つ私の汗が沁み込んだ現場である

どの現場にも難工事の苦労があった

気がついたら、氷見市の民間土留め工事の約60%を制覇していた

当時土建業者は70社ほどあった。

まさに圧倒したのである

昼は現場での力仕事、そしてシャワーをしてご飯をかけ込み、そして毎晩毎晩営業であった

あっと言う間の約10年であった

アルバイトの高校生達、前正公、高木清澄、牛房、タバコさん、もう一人の前さん、

            笹谷、河合木材の人たち、

堂田建設、中越土木、水口工業、兼松建設、河尻土建、小矢部の吉田工務店

角地建材その他

 

多くの人のめぐり合いと支えがあった

重ねて土方の仕事は私の強い体を作り上げるとともに、あらゆる面で精神を強くした

「寶」解明に7年体重は一時50キロを切った

筋肉質の体を7年かけて10`カンナで削った

この時代が、私の強い体と諦めない精神を培ってくれた

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全ては「寶」の道であった

 

平成181214