「椎茸販売」


本能的に呉服業では、将来家族を養っていけないと感じていた

さりとてこの後に本格的に突入する千里ブロックに進むには、まだ準備も、知識も、時期

もまだ早計・・・・私の勘であった

私は慎重派と言うより、実は臆病派なのである

大失敗すれば、一家離散である

私はこれまで色んな事に手を出した。しかし人生を振り返って、絶えず自分の元手全てを

賭けた大勝負はしなかった

それは妻子を守るためであった。そのため臆病にならざろう得なかった。

お金もそうだが、失敗した場合の絶えず逃げ込む場所、即ち二重の保険をかけていた

また千里ブロック時代も現場作業員全てアルバイトであった

常用、即ち正社員を雇わなかった

絶えず身軽にしていた

当時の自分の力量を自分が一番分かっていたのである

それが自分を大きく出来なかった原因でもある

幸か不幸かそれは分からない・・・その上に現在の自分がいる

マアそれはおくとして

当時義父が口熱く語るが、ブロックは一向に売れてはいなかった。

不安な問題点もあった

@     まず美的感覚に欠けること

A     地盤が良くしかも砂地の羽咋に比べ、果たして土質の違う軟弱地盤の多い氷見で通用す

     るか?????!!!!!!

非常に疑問があった

B     後年分かった事であったが、コンクリート二次製品には生産工場・商社・土建業者・消費者の

C     流通経路がある。その正規のルートに各々マージン上乗せすると、この製品は価格競争

D     の優位性が著しく低下するのである

 

呉服をしながらも、アレコレ悩んでいたのである

・・・・・・・・・・・・

さて当時から私は色々なアイデアが思いつく度にノートにメモしていた

そんな頃、中学生時代からの親友であったK君が10年程働いていたヤクルトの会社を退

社したと連絡が入った

中学生時代から親の露天の手伝いし、朝はヤクルトの配達をして学校へ行き、上背は私よ

り少し高い1m63cm程なのに、中学・高校とバレーボールのレギュラーを勤めた男であ

38年の豪雪だったと記憶している、大会に遅れるかも知れないと案じた前日、私も早朝起

きて物凄い吹雪の中で自転車を後押した記憶が、今蘇ってきた

真面目で努力家、中学からの親友である。高校は別々となったが、40年の春高校卒

業記念に彼と二人で名古屋へ旅行に行った程の仲であった

その彼が、勤めていたヤクルトを辞めて一旗上げたいと向こうから連絡が入った

辞めた事情は社内の派閥抗争の結果であった

そんな時私はトイレの中で一計を思い立った

それが椎茸の原木販売であった

理由は

@ 東京はアパートが狭く田舎から出てきた人が多い

A 狭いお風呂の中やベランダなど場所を取らず簡単に栽培できる

B 水を与える担当を子供にして、情操教育に使える

C 新鮮な椎茸が食卓に載る

D 原木1本1100円×3本セットで、3500円程度で約7年近く採取できる

    (仕入れは550円で運賃をプラスしても流通計算が合う)

E 椎茸は焼いても煮ても、バター炒めしても美味しい。一般に嫌いな人は少ない

F コケ類はカロリーが無くがん細胞を抑制する不思議な食品である

G その他

注・原木は長さ90cm×口径約15cm重さ約8`位

着目したのは特にABCDであった

彼に電話を入れると東京では椎茸の原木が何処にも販売されてはいない

面白い是非売りたい、自分に売る自信が有ると言う

彼は東京の玉川ヤクルトのトップセールスマンであった

努力家の彼なら間違いないと、確信した

実は私は子供の頃から椎茸が大好きであった

自分が大好きなものは、キット他人も大好きである

椎茸を嫌いな人間はいない

3月頃であったろう、私は伏木国分の椎茸の菌打ち込み工場から、2〜3千本を買い付け

更に氷見市農協の担当のT氏に数量は忘れたが、在庫の殆どを買い取る約束をした

見込み仕入れもはなはだしい。アホである!!!!!!!!!

そして富山県椎茸品評会で一等賞、吉田知事の表彰を受けた賞状のコピーを添えてトラッ

クの第一陣を送り出した

そして第ニ陣・・・・・

     ・・・・・・・・・・

ところがその後何の音沙汰も無い・・・・・・・

お金の振り込みも・・・・・・・・

参った

私は思った

買い付けた椎茸の原木を自分で裁かなければならない

・・・・・・・・・・・・・

記憶ははっきりしないが、確か100万程買い付けたと記憶している

100万÷55円=約1万8000本

いやそんなに多くは無い、その半分約1万本かもしれない

私がサバイタのは、7〜8000本位?!

記憶は定かでない・・・・投資額は100万と勘案していた

・・・・・・・・・

兎に角私は再び友達のY氏に2トントラックを借り、4月から7月頃まで、残りを売り歩

く破目になった

氷見・伏木・高岡・富山・岩瀬・金沢・高松・羽咋・七尾と毎日毎日トラックに満載して

売り歩いた

そうそうその時の手元が某運送会社を辞めて、失業していた中沢君であった

売り歩くうちに、町並みのどの路地が沢山売れるか、路地の道路幅、家の建て込み具合、

路地の風景で分かるようになった!!!!!!ホント

ところが当時、土地土地の農協から各町内に回覧板で購入希望の予約を取って既に売り終

わった後であった・・・・・・・参った

何とか売りつくそうと最後は原価を割って売っていた

投資額を何とか回収しようと必死であった

男の意地であった・・・・・・・・参った

それでも500本以上残った

近所の人にタダで配って、それでも200〜300本残った

家の中庭に積み上げて、5年ほど大好きな椎茸のバター焼きを食った

参った

売ると言う事の原点を肌に沁み込む程の貴重な失敗を体験した

その2〜3年あと、東京の彼を訪ねたら、借家の庭に私以上の原木の山であった

(笑い)・・・・何も言えなかった

金は今も未回収、彼も苦しかったのである

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・

失敗は成功の元

     ・・・・・・・・・・・

ブロックに突入前の呉服の時代、全ては生きる為、家族を守るための試行錯誤であった

・・・・・・・・・

しかし不思議である。

今も椎茸が好きなのである

ただ味は・・・少しほろ苦くなったが・・・・

     ・・・・・・・・・・・

 

平成181218

蛇足

尊敬する能田大兄の事務所に世界の本田宗一郎の、直筆の色紙があった

成功は99%の失敗の上に立った1%と・・・・・・

失敗はローマーに通ずる

私の人生の連戦連敗は「寶」に通じた

漸く成功の確率は3対7に上昇・・・・・・まだ五分五分には至らない

以上