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吉備の真備の世界 中山薫
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吉備の真備 天平の光と影 高見茂 2冊
神器「寶」のキーマン吉備真備を更に詳細に知りたく、急いで、
アマゾンで2冊取り寄せた
中山先生の本は詳しかった
2冊を3日間で読み終えた
真剣に読んでかなり疲れた
インターネットで疑問符がついていた真備の母親の墓碑の箇所を真っ先に探した。
二冊共に載っている。
真備の母親の墓誌の拓本の記述二冊とも納得できない
2人の学者も、何とかつじつま合わせである
拓本の文中に「楊貴氏」の名前が載っている。
インターネットに母親の実家が八木氏で楊貴氏はその当て字と解釈している
しかし二人とも疑問も呈している
それでもこの2冊にも同じように当て字と苦しい解釈をしている
学者の習性であろう
墓碑の記述に忠実、正確に解釈しようとするから、混沌に陥る。
734年1回目の遣唐使の役目を終えて帰国したのが734年である
墓誌の銘文は真備が第一回の唐から帰ってきた4年後の天平11年739年である
楊貴妃が貴妃の座に正式に着いたのが745年である
その時真備は楊貴妃の存在は知る由もない
そして2回目の遣唐使として入唐したのが751年で753年帰国である
墓誌から帰国まで14年後である
この墓碑を母親の死んだ数日後に建てたとするから、説明ができないのである
真備が二度の遣唐使の役目をはたして無事に帰ってきた
まさに命がけの役目である
そして楊貴妃が「寶」を届けてくれた
いずれにしても無事に帰ってきたのは母親の加護である
長らく日本を離れ親孝行もできなかった
そこで、真備は母親に最大の敬意・世界一の楊貴氏と命名したのであろう。
さすれば、全てが説明できる。
真備の面目躍如、新たな人間像である
学者の発想は貧困である
大宰府754年大宰府にあえて下向を願い出る
墓碑は大宰府から帰ってきた後でも良い
墓碑の日付と建立した日付を同日とするから説明がつかないのである
千里眼承禎の解釈である