承禎の人生観 奇跡の和歌
平成九年一月五日・第一版刊行に和漢太極「寶」歌を詠んでいる
既に21年前である
この第一版から第四版を書き上げるのに計8年を要したのである
記憶は定かでないが、最初の第一版に約3年を要した
当時、原稿は手書きであった。
であるから印刷屋の奥さんに大変面倒をかけた。
殆どメチャクチャに近い原稿を、よくぞ校正していただいた。
この時の、苦闘は自分ですら想像を絶する戦いであった
平均睡眠時間は3時間を確実に切っていた
当時はまだパソコンが殆ど出回っていなかった
あったのはワープロであるが、それすらも知らなかった
印刷屋の奥さんが、たまらず社長ワープロ覚えて使われと進めてくれた
確か第二版からと思うがワープロを使いだした
その便利さに驚き感動した
いずれにしても、その第一版に既にペンネームを平成承禎と名乗っている
平成承禎は「寶」の印面九文字太極奇跡の九文字を考案した司馬承禎の名前を
拝命したのである。
拝命するにあたり、印面の奇跡の九文字と同じ確率の和歌考案を自分に課した
のである
第一版の最終段階の約3ケ月、「寶」解明と戦いながら、来る日も来る日も太極
の和歌心の中で模索していたのである
そんな夏の晴れ渡ったある日、湊川の河口の浜辺を歩いていた時、天から降っ
たように口からスラスラとついて出たのである。
願いが天に通じたのである
「寶」解明は誰も知らない、知っているのは自分だけであるから、発句の「た
れか知る」は必然的にでた、そして「とわの天原・踏み越えて」も「唐と和の
天の天原」東シナ海にかかる天の川を超えて」、そして高天原の草原を踏みこえ
て」と自然の流れで口からながれた。
そしてまさに「天寶降臨」で、それを「世にしらせんと」まさに3ケ月悩んで
いた答えが、スラスラと口から吐いて、でたのである
出来上がって、こんな歌は考えて詠める歌ではない
まさに天が私に授けてくれた歌である
その時、立山連峰が鮮やかであったのである
冬程ではないが、夏の優しい立山連峰であった
この和歌を詠んで司馬承禎の名前の「承禎」を拝命したのである
そして本格解明は、まさに「平成」年間で平成承禎をペンネームとした。
そして、第四巻刊行の時、「天」「天」に〇・〇を添えるとまさに天文学的確率
の和漢・太極「寶」歌が完成した
それを自分で解読しその凄さに自分で驚いた
この和歌は何億分の一の確率の歌で、司馬承禎の奇跡の九文字をさらに超えた
この和歌を解明できる学者は日本中で一人もいないであろう
承禎は10年ほど前、懸賞金1000万円で応募クイズにしようと考えたくらい
である
承禎が人類で初めてこの太極の韻文を解明し、壮大な歴史の全容を解明したの
である
東大生全員束にかかってきても解明はむりであろう
深い自負がある
これを解明する時、承禎の「寶」本そして易・陰陽五行・道教・語彙解釈・和
歌・和数術を勉強しなければならない
「寶」本は、第二版・第三版と回を重ね、最終の第四版を仕上げたのである
第一版があって第四版が完成したのである
その第四版を仕上げて、自信をもって日本中の名の知れた学者・各界の著名人・
政治家約約150名に配達証明で送り届けた、
その書状に作成だけで23日間を要した
教養の無い承禎である、その書状を何百回見返したか分からない
準備段階と解明に13年は費やした
そして日本中に問いかける乾坤一擲の書状である
今の様にインターネットの時代ではない
著名人の住所は図書館の紳士録で調べた
あて名書きを毛筆で認め、一日5〜7名に送るのが、精一杯であった
しかも日本の各界の第一人者150名である
氷見の郵便局ははばかられたので、伏木・能町・高岡の郵便局から発送した
返書が届いたのは、草柳大蔵先生、中国の王敏女史、吉野裕子博士、上杉千郷
館長・蓑豊館長・5名であった
20年以上前の話である
振り返って、日本で指折る阿呆である
我ながら自分自身に呆れるばかりである
平成31年3月29日