承禎の人生観  其の三・間一髪

承禎は今日まで、奇跡的体験を、5回経験している

そのうちの4回は「寶」解明の終盤である

その4回は人が聞いても信じない神霊的体験である

最初の1回の奇跡は、0.5秒で助かった運転での危機一髪である

その0.5秒の差で助かった物理的危機を救ったのは、天の加護、「寶」解明を果

たせとの天の救済と確信している。

その1年か半年前に「寶」と衝撃的出会いをしている

当時は天の加護とは思いもしていなかったが、今振り返って、そうとしか思え

ないのである

それほど、危機一髪、0.5秒いや双方であるから0.25秒である

1秒ではない。

時は不動産バブル、毎日睡眠4時間で絶頂期、目の回る程忙しい日々であった

7月14日の早朝5時〜6時頃の間である、場所は高岡の清水町の交差点である

糖尿で入院していた戸出の一ノ瀬和田内科から自宅に向かって車を走らせてい

た時の事である

その日は氷見市の祇園祭で、承禎の誕生日で一時帰宅であった。

早朝で道幅も広く感覚的に60キロ前後で高岡の市街地に向かっていた。

早朝である、軽く見るバックミラーの後方にも、前方にも車は一台もいない

初夏の早朝で明るかった、時間は朝5時を少々過ぎた頃と記憶する

交差点の少し手前、自分の直進する信号は黄色の点滅で、横切る道路は赤信号

の点滅である

朝は早いが、視野も広く軽快な運転であった

そして殆ど無警戒で直進して交差点に入った処へ、突然目の前を100120キロ

の赤いスポーツカーが、目の前を走り去った

一瞬目に映ったのは若い二人乗りであった。

その距離2〜4mである

0.5秒であの世行きであったろう

赤の車のボディが,左のから目に飛び込み、フイルムの早送りのように映っ

無意識にブレーキを踏んだ記憶がある

まさに間一髪とはあの日、あの朝、あの時の事である

車は猛スピードで高岡駅方向に走り去った

数秒間、交差点でハンドルにもたれかかった。

自分の速度が60キロ・驀進の赤い車が間違いなく100キロ以上である

0コンマ・マッハの世界である。

赤い車が0.5秒遅く来るか、承禎が0.5早く来たら、100%承禎はあの世行で

あった

双方どちらかが0.5秒ずれていたら、いまこの原稿も書いていない

今もあの時の鼓動が聞こえてくる様である

50年以上の運転歴で、あのような危機一髪はこの一度だけである

当時、糖尿で和田内科に入院していた頃は、バブル期絶頂期で、その1年か6ケ月前か、

記憶は定かでないが「寶」と運命の出会いをしていた。

「寶」と吉田翁の自宅で、初めて拝見した時の衝撃的出会いは、今も脳裏に鮮

明に残っている。

中国の5本に入る国宝、絶対に手に入れると心に決めていた。

当時はバブル絶頂期で、目の回る忙しさで連日平均睡眠時間4時間であった。

振り返って、天が「寶」解明の為、承禎の命を救ってくれたと、今では確信的

に思っている

「寶」解明は、運命ではない、天命であった。

以後、朝の交差点は黄色点滅でも気をつける習性がついた

「寶」解明は何千万人いるサラリーマンでは絶対に無理である、

中小企業・事業者でも無理である

大学の中国史研究をする教授・助教授でも無理である

なぜなら、彼らの思考はそれまでの中国史の固定観念が邪魔する

また「寶」解明には陶磁器部門の知識、そして直感が鋭く無ければ無理である

「寶」解明には、中国史全般・唐代史・皇帝文化・漢字学・道教・陶磁器・易・

陰陽五行・篆刻・幅広い分野にまたがる

大学教授は狭義のパーツ・パーツの専門学問である

医学と同じ専門学問である

秀才では無理である

中国史の知識がどれだけあっても無理である

過去の常識・定説を破り捨てる、大胆な発想が求められる。

承禎のような固定観念の無い、浅い中国史全般の知識を持ち、さらに阿呆でな

くては絶対に無理である

アホと執念、これまでの中国史の常識を全て初歩から始まる

証拠に30年間4500名が参集する日本の四大学会「日本道教学会」「東方学会」

「日中学会」「日中関連学会」の役員、60名余に、何回も配達証明郵便で「寶」

本を届けたが、全員、沈黙背走である

また東大の名誉教授2名を筆頭に個々の教授60名余に届けたが、全て沈黙背走

であった。

恥ずかしくないのかと問いたい

昨年も今一度と配達証明郵便で、CDと「寶」ダイジェスト版を各会長に届け

たが誰一人返書は無い。

関係諸本3000冊以上の諸先生方の著書に「寶」の「タ」の字も無かった

「寶」の記述は諸橋徹次先生の大漢和辞典のみである

東大クラスの並みの秀才先生では無理である

寶と巡り会って約35年前、危機一髪の難を天に救われ、記憶は多少不確かであ

るが、本格「寶」解明に32年、既に11万時間を費やした

32年間の平均睡眠時間は4時間である

バブル期の5・6年間も平均睡眠時間4時間であった。

「寶」解明に突入する前、商売の不動産は売買から賃貸に完全転換して、仕事

の戦場を高岡から氷見市に完全移動。

以後仕事の殆どは女子従業員に任せた。

そして当時氷見市の80%の賃貸アパートを管理下に置いて、絶対に潰れない

体制を構築して「寶」解明に向かった

当時全国で約5万人の市町村で賃貸の85%を占有している不動産屋は恐らく

いなかったであろう

まさに金城湯池を構築して「寶」解明に突き進んだのである

売買手数料は年間、500万と設定してそれ以上はしない。

自分の自由時間を創出して、そして時間との壮絶な戦いであった。

最終の「寶」本を書き上げた8年間の平均睡眠時間は3時間である

気の狂うような日々であった

時間と仕事の質量、まさに相対性理論のような世界であった

そうそうアインシュタインも知識より想像性が大切と話していた

彼の「神はサイコロを振らない」は有名な言葉である

承禎の場合、天はサイコロを振らないが、阿呆に白羽の矢を放った

参った

ユーチューブのアインシュタインを見て、拍手喝采であった

横道に逸れるが、クイズ番組で優賞する、それは知識である

承禎は知識が無いから今も本を読み、ビデオを見ている

まさに、あっと言う間の平成の30年間であった

自営の不動産業が、潰れず、倒産・廃業に追い込まれること無く、生き延びて

こられたのも全て天の加護である

その間、両親・兄・妹・長男が逝った

そして「寶」闘争貫徹の為、離婚をして家を売却し、数年前最後の戦いに挑む

軍資金が必要で、虎の子のアパートを処分した

さらに生前葬とりおこない、実家の家と先祖の墓も処分した

また公証人役場で遺言証書も立会人のもとに作成した。

普通の秀才人間なら発狂か自殺である

そして「寶」本の検証に九州天草、山口油谷・東京・中央研究所でのCTスキ

ャン・台湾故宮博物院・その他東奔西走である

軍資金を作り、氷見水産センター2回の講演会、そして48都道府県の旅行。

承禎の「寶」本を真に理解した人間は、中国の王女史を含め日本中で約10人で

ある

「寶」解明できる可能性の人間は恐らく承禎以外5人もいなかったであろう

地獄と有頂天、最悪を脱し、日本中で誰も味わえない前人未到の大パノラマの

新天地を悠々と一人闊歩している。

全ては天命・宿命・奇跡・天啓であった

氷見市に生まれ、両親から生まれ、阿呆に生まれてよかった

天の御指名「寶」と出会って、最高の人生である

 

平成31326