承禎の死生観
私の友人に死んだらゼロ、全てお終りになるとの持論の人がいる
しかし私はそうは思わない。
記憶では立花隆の著書「臨死体験」に死の直前の多くの体験談に、死の向こう側があると
の話が集めてあった。
私の身近な人、2人も同じようなことを体験したと云う
その二人の体験者に聞くと、二人とも死が怖く無くなったという
死んだらゼロになるのか。
ゼロは漢字で無とも言える
しかし無は無にあらず虚の無ではない。
虚はカラ、真空状態であるが無は虚ではない
無限大の無とも云える
人間死んだら無もしくは虚となっても、その人の生き方は残る
残る度合いの問題で、例えば聖徳太子・福沢諭吉・松下幸之助などは1000年でも残る
死してその人の思想哲学が生きるのである
死=虚ゼロではない、哲人の思想哲学は偉大な無として生き続けるのである。
釈迦・キリスト・マホメットもそうである
身近で言えば、祖父や父母も私の心の中で生きている。
数学的にはゼロを中心に無限大にプラスとマイナスの数が一直線に続く
仏教的には無量大数と清浄の世界である
マイナス虚数が永遠に存続する
マイナスの数位が実在しない虚なのか
観念の数なのか
摂氏マイナス何度、摂氏プラス何度の場合のゼロ度などは暫定数のゼロなのかは別として
数学的には間違いなくゼロを起点に左右に分かれる・
死は肉体的消滅である
脳に蓄積された、知識や体験から生まれた知恵も同時に消滅するのか、誰も分からない。
何故なら肉体が消滅してから、一年を経過して生き返った人は皆無だからである。
よほど死後の世界が楽園なのか一人も戻ってこない
近年DNA研究が目覚しい
クローン人間や、人間の精子でなくとも細胞のチップで人間が作れる時代が目の前らしい。
マァ、自分と同じ人間が大量生産されたら、人類にとって迷惑な話であろう
現在医療の進歩は目覚しく人間100年時代である
何かの本で人間の生きる限界は125年との事である
100年程で丁度である。
私の母・式部は数えの100歳で亡くなった
眠るように亡くなった
考えると500年も生きたら、人生頑張るのも延び延びになる
人口も増えて人類全体が滅亡する。
自然は考えて調和を保っている
自分は死後の世界をゼロと否定できない。
数年前生前葬を執り行った
取り仕切った住職から戒名も貰った
ゼロ歳からの再出発である
人生を二度楽しむ
そんな考え方である
死後の世界は殆んど永遠と考えて、棺には和英辞典・旧約聖書・数学の公式集
哲学辞典・植物図鑑・漢和辞典・孫子の兵法書・詰将棋の本と囲碁の本、「寶」本と一緒に
焼いて欲しいと願っている。
出来ればパソコンとこの世の通信にトランジスターラジオ・クラッシック音楽集も一台欲
しい。
さすれば、悪い頭であるから一万年は退屈しない。
マァそれでも一度しかない人生と限定して考えていた方が、現実的である事は間違いない
そうすると、残りの30年は時間とのせめぎあい、戦いである。
忙しい事である。
まあこれまでサラリーマンの5倍、中味の濃い人生を送ってきた
であるから現在350才と思っている
350年間中味が濃い分、逆に時間が短い・
相対性原理のような感じである。
まだ、花園の色んな匂いを嗅ぎたいと思っている
離婚して大成功
以後、人生が大きく開かれた
マァ、自由に使える時間を氷見一持っている
タイム・イス・マネー、すなわち氷見一の金持ちである
あの世へ行ってから世界一周旅行そして出来なかったゴルフ、大好きな麻雀を心置きなく
したい。
マァ、兎に角、悔いの無いよう、全力疾走である
これからが正念場である