怪物・細川薫

               

何でも記憶である

核シェルターの植村厚一社長の資料と一緒に、怪物・細川薫先生との出会いの

資料が出て来たので、記録にとどめておこう。

これまでの人生で、色々な人と出会った

幼馴染・学生時代からの友人・青春時代に始まった交友

そして生涯・師と慕う人達

承禎ほど、凄い人達と出会った人間も少ないであろう

日本を代表する諸先生と出会って来た

加瀬英明先生・草柳大蔵先生・藤井善三郎先生・吉野裕子博士・黒川総三先生

上杉千郷先生みな日本の頂点の方々である

テレビの有名人やスポーツ選手や国会議員などでは無い

知の世界の頂点の方々である

余りに凄くて、その凄さは普通の人には観えない。

承禎でも、まだその先生方の足元にも達していない

これまで長い、知の旅路であった

駄作の歌9000句を詠み、ビデオ映画は2000本、読書は約1万冊(53

万語彙の大漢和辞典6回を含めて)である。

古美術・絵画は十万点以上触れた。

あらゆるジャンルの一流の芸能にも触れた

遠い遠い未踏の地に来たもんだと実感する

それでも上記の先生方に及ばない

果てしない旅路である

寂しい事ではあるが、生きる世界が異なり・結果サヨナラとなった人達も多く

いる

その人の生きざまに関心と興味を覚え、求めて、出会った人

運命的に出会った人もいる

人間一生に、色々な人と出会う

出会いと、別れの人生である

そんな承禎の人生の中で、記憶に強く残る怪物がいる

巨魁と呼ぶに相応しい人物であった

それが細川薫先生であった

京都大学法学部を卒業し、日本の総会屋の一方の旗手になった人である

出会ったころ承禎は30歳を少し過ぎた頃で、当時細川先生は65歳前後であ

ったろう

記憶は正確ではない

承禎が出会った時、あの日本のドンであった、船舶振興会の笹川良一と戦って

いた

当時、笹川は高見山をテレビ・コマーシャルに出して「戸締り用心、火の用心」

と絶好調であった

そして笹川は山口組の田岡組長と組んで、日本で敵無しの存在であった

田中角栄ですら、船舶振興会に課税しようとしたら、脅迫されビビったと云う、

まさに日本のドンであった

また当時、株の世界で一世を風靡した誠美グループの加藤が一時的に活躍した

時代でもあった

その笹川に立ち向かったのが細川薫であった

承禎は自殺した義理の兄の保険の後始末に大正海上の生命保険会社の本社と交

渉する為何度か東京へ出向いた時期であった

その時、東京八重洲のブリジストンタイヤの本社向かいのビルに「笹川は人殺

し」と窓ガラスに書いてあるのを見て、向う見ずにも、その一室のドアを恐る

恐る開いて入ったのである

そこには、箱形のロッカーと同じコンピューターが10台近く並んでいた

当時は現代のようなパソコンなど無く、大型のコンピューターであった

細川氏に詳しく株の事は聞かなかったが、株のデータ―入力のコンピーターと

の事であった

当時細川氏は神戸電鉄の個人筆頭株主で、奥さんと2人で5%持っているとの

事であった

会社四季報で確認し、知り合いの頭川証券の、○橋君に持ち株の時価総額はい

くらと問うたら25億円との事であった

約40年近く前の金額である

その細川氏に何回か会って帝国ホテルで、ご夫妻に招待され食事に招かれた事

もあった。

田舎者の若造が赤じゅうたんの帝国ホテルでの食事である

その時、夫妻に新興宗教の教祖になってくれないかと誘われた

教団の名称は「世界幸福学会」との事であった

学会の本部の用地は既に買ってあり、場所は長野の善光寺の背後の山との事で

あった

幸福学会のオリジナル体操はローマーオリンピック金メダルの小野透の奥さん

(国会議員)がレコード盤の表紙に写真掲載されていた

そしてその音楽の作曲は山本富士子の夫・古屋丈晴氏であった

(そのレコード盤は、どこかにあるはずである)

どうしようか迷い、高岡の霊感の強い富山染工の羽岡の奥さん相談した

その結果、断った経緯があった

その後、東京へ尋ねたら事務所は閉鎖されてあった

原因は笹川に追い詰められたのであった

その時、承禎は命の危険を感じ、一挙に距離を置いて離れた

何十年も経った。

その後の消息は一切分からない

お年から云って、この世にいないだろう

永い人生である、色んな人と出会って来た

その中で怪物のベストスリーの一人が細川氏であった

小さな氷見市では到底会えない日本の巨魁であった

もしあの時引き受けていたら、人生は全く違う道を歩んでいただろう

勿論「寶」との出会いも、そして解明もなかったであろう

ひょっととして、殺されていたかもしれない。

危うかった。

詳しく話せば長くなるので止めておくが、人生で、これ程危険を感じた場面は

無かった

細川氏は笹川から命を守る為のボディーガードを雇っていた

オオカミのような眼つきの男であった

今もそのボディーガードの目が記憶に残っている。

承禎は一挙に細川氏から身を引いた

そして天は「寶」解明の長い道程に向かわせた

この週刊誌の切り抜きは、核シェルターの植村先生の資料とともにあった

全ては承禎の人生の記録である

平成29723