核シェルター   その一

    (写真右)

(本名 植村 厚一) 大正7年札幌に生れる。北海道帝国大学工学部卒業。

朝鮮総督府技師、北海道開発局、小松製作所を経て、昭和40年植村技研工業株式会社を創設。

画期的トンネル工法を完成。関連特許約350件を擁し、内外に雄飛する。平成12年4月6日昇天。


今から40年近く経つであろう

千里ブロックと不動産屋への転身の間の数年間の頃である

懐かしい写真で有る

写真を見ると自分にも若い時があったと思わず、感慨にふけった

あっという間の40年である

棚を整理していると、この市民防衛とシェルター関係の資料一式出て来た

承禎と同時におさまっている写真は植村技研の植村厚一社長である

社長の著書もあったが散逸した

植村技研は核戦争用のシェルターの販売会社であった

不動産屋に転業する23年前である

その頃、一日に7冊を読む目標を立てて、一年で確実に2000冊以上の本を読破

した。

何時に寝て、何時に起きるか、睡眠時間は当時も3時間程であった

自宅横の千里ブロックの事務所裏の一室で、一年間泊まり込みで読みふけった

部屋には、絶えず古本屋から買って来た本・また図書館から借りて来た本が100

冊近くあった。

仏教書・中国の歴史書・経済・国防とあらゆる本を読んだ

そして辿りついた末に、国防が気になって、核戦争になったら日本はどうなる

のだろうと自問自答し、東京六本木の自衛隊広報部に出向いた

当時自衛隊は核戦争の具体的対応はしていないとの説明で、民間で核問題を

取り扱っている植村技研の存在を知って、その足で飛び込んだ

承禎は思い立ったら即、行動である

若かったのである

植村技研を知り、核の事を勉強した

そして植村技研と契約し、核シェルターの北陸の総代理店になった

間違いなく阿呆である

当時から中国、北朝鮮を念頭に置いていた

ホントである

当時代理店契約の第一号店であった

写真が植村厚一先生(故)である

平成29626