「西田文兆堂」
日本の骨董界で一世を風靡したと言っていい
李朝関係の骨董では日本の若手3羽ガラスと業界で囁かれた程である
著書は『日本の骨董店』と記憶しているが、兎に角、有名骨董店として全国の老舗骨董店
と肩を並べて紹介された。
監修は東京上野にある国立博物館の矢部氏(肩書きは忘れた)だった
矢部氏は『原色日本の美術』(小学館)の陶磁器部門を監修しておられた
私は西田氏と、その矢部氏二人に「寶」を見ていただいているのである
勿論東京上野の国立博物館に出向いたのである
その事はいずれ出光美術館館長長谷部樂爾館長のコーナーで触れるから、ひとまず西田氏に
ついて語ろう
当時西田氏は小矢部の津沢で県下一二の骨董のセリ市を開いていた
遠く九州、そして仙台からも骨董商が集まり、最大事60〜70人程の業者がきていた
私の勘定では最盛期一日1億近くの取引があったと想像している
何万から何十万単位の骨董品が次から次と取引されるのである
西田氏の市は鑑札と出入りの骨董商2名の保証人が必要であったが、私だけはフリーパス
にしていただいた
私は不動産屋で看板を掲げ、二束の草鞋を履く気持ちはなかった
それでも気持ちはプロであった
当時サンステージ氷見の9F、ド真ん中の部屋に陣取り、骨董品を並べ、友人知人を招い
て楽しみを兼ねて、マンションを宣伝していた
高級マンションの最上階、眼前の景色は富山湾と立山連峰、最高である、まさに骨董品を
売り込むお膳立ても兼ねていたのである
私は絶えず一石二鳥三鳥の男である
兎に角そんな頃、宗久庵の村中氏を介して西田氏を知り、骨董市にも出入りさせて戴いた
その西田氏は県立二上高校の窯業科卒と伺っていた
即ち焼き物を陶芸家などの芸術では無く科学的に経験して来られた方である
その西田氏に陶磁器の印鑑即ち「寶」の陶印を電話で話した
西田氏は陶印など、実物も目にした事も無いし、文献すら殆ど無い!是非拝見したいとの
即答で小矢部へ車を飛ばした
「寶」の二重箱を開け、敷布の上で披露すると、即座に焼成不可能! これは中国政府に
返還しなければならない陶磁器と!語気を強め言い切った
「寶」を手にして、そして私は二上の窯業科卒です
こんな角の厚手の焼き物は捩れるか爆発して、焼成不可能と言い切った
大阪天王寺、
西田氏もまた「寶」解明に遣わされた人であった
日本中の骨董品屋を相手の競り市の胴元である
瞬時に価値を見分ける目が求められる
なまじの目、机上の知識では胴元は勤まらぬ
不動産屋より厳しい目が要求される世界である