「寶」のY印刷会社
バブルの波をかぶり廃業に追い込まれたのでY氏とさせていただきます
Y氏が会社設立時、事務所兼作業場の物件をお世話させて戴いた関係により知り合ったの
である
そしてそのお世話した物件を損害無く再び売却させて戴いた
行き先の高岡のテナントもお世話させて戴いたのである
知り合ったのは、まだバブルの頃である
奥様は国立の大学を出られ、アシスタントとして優秀な女性であった
「寶」の刊行は不動産でお世話になったY社と心に決めていた
第一回目の小誌「寶」の刊行時、Y氏の印刷作業場は氷見と石川の県境であった
私は何度も打ち合わせに県境の工場に車を飛ばした
何度かの打ち合わせの中で、私の「寶」の仕事が歴史的にどれ程大切な事をしているか理
解して戴いた
奥様も金銭を度外視して協力していただいた
その頃から、別れた妻の無教養、無理解、守銭奴の角がムクムクと生え出した
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当時ワープロが出来ず奥様は手書きの酷い酷い私の原稿を、愚痴もこぼさず打ちなおし仕
上げて戴いた
他の印刷屋では到底引き受けてくれなかっただろう
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第1回目の小誌「寶」の刊行日は、キトキト舎の項で話した通り、平成9年1月5日であ
る
それは「寶」の易の重要数位そして皇帝の吉数日「1」「5」「9」の数位に合わせるため
であった
そのため、寝食を惜しむどころではない!
背後に死神が囁く程の、壮絶な戦いをしてきたのである
平成8年12月31日大晦日に仕上げる
それは私の悲願であった。
いや天が私に課した至上命題でもあった
Y氏と奥さんは正月の神棚の用意もオセチの支度も勿論無しに、疲れた体に鞭打って夜の
9時半頃までに仕上げて戴いた
それを箱詰めして、高岡の翁、伏木の黒川先生、挿絵の高岡の広瀬氏、その他、お世話に
なった人十数人に配り、除夜の鐘も鳴り終わった頃キトキト舎に飛び込んだのである
そして帰宅し深い眠りに就いたのが元旦の2時頃であった
Y氏もまた別れた妻のお金に対する壮絶な執着心を目の当たりにしている
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兎に角、Y社とその奥様のお力無くして「寶」の完成は無かった
黒川先生も挿絵の広瀬氏もY社も皆不動産がご縁である
不動産の道は「寶」解明の道でもあった
人の出会いは不思議なものである
平成19年8月24日