サン・ステージ氷見A

 

このマンションの事は今一度付け加えておかねばならない

それはこのマンションが、バブルとその崩壊の象徴的存在であり、そして「寶」執筆、解

明の事務所と自宅そして第3の戦争場であったからである

このマンションは当初高岡のT建設会社が売買目的で建設した

そしてそれを富山のM不動産会社が購入した

M不動産は入居者を早く満杯にして、そして都会の相続税対策の人に丸ごと売る計画であ

った

M不動産は氷見市内のS不動産に全面委託していた

私は建築時からT社にそしてM社に譲渡されてからMに委託管理をお願いしていた

しかし私は氷見市ではなく、高岡市の不動産協会に所属していた

S不動産は氷見市の不動産協会員でしかも役員も歴任していた

このためM社は私よりS不動産を有利と見て委託した

しかしS不動産は売買を主力業務とし、しかも奥さんは手のかかる花屋を営んでおられた

したがってスタッフもまた賃貸業務の体制も殆ど出来ていなかったのである

DK〜2LDKまで全部で33戸数ある

1年以上S不動産に業務委託していたが、三陽地所に移るとき確か3戸しか入居していな

かった

即ち90%空室だったのである

その頃、私は老朽化したアパートを管理下に収め、そして自社のサンコーポ柳田を手にい

れ、更にセキスイハウスと共同で粛々かつ全力で賃貸路線を推し進めていた

足場を確かなものにして、そして再びM社に氷見市で賃貸業を取り扱うのは自社しかいな

い事を電話で力説した

遂にM社はS不動産から三陽地所に委託する事を承諾した

まさにM社は全面的かつ殆ど無条件で当社への委託を委任した

子供達が大学へ行っていた頃である

高岡から氷見に戦場を移す。

まだ事業転換は6割の段階であった!!!!!!

しかし賃貸路線は確かな道を歩いていた

その頃、まだ同業他社は賃貸には見向きもせず、バブルに酔いしれていた

私はバブル崩壊後を睨みながら、大魚から小魚へ

仕掛けの網と場所を変える

他の同業者が気づかぬよう、粛々と推し進めていた

                                                     平成19821