炭屋
子供の頃我が家は炭屋を営んでいた
薪、練炭、炭、豆炭などを売っていた
現在の事務所が倉庫であった
時には倉庫の天井近くまで炭が積み上げてあった
昔炭を積んだトラックが来て、天井高く積み上げている頼もしい父の笑顔が今も思い出さ
れる
良く考えると、父親の苦労話を殆ど聞いた事がなかった
父親が亡くなって、この年になって初めて深い感謝の念が沸き起こる
信心深く温厚で誠実な人であった
私と違い人と争う事の嫌いな人であった
父親を悪く言う人はいなかった
私は間違いなく血の気の多い母親の血が濃い
80%は母親の血である
それはさておき、子供の頃と言っても小学1〜4年生頃の事である
良く炭、練炭の配達に行かされた
遠い所まででは無い
今でも記憶しているのは、布施善書店まで何度か配達に行った事を記憶している
自転車の後ろに積んで行くのである
後ろの荷台に練炭10個入りのコロを1つ積むと重心が上で均衡がとれず手押しでもハンド
ルがふらつきよく転倒して割らかした、それでも親は叱らず、辛抱づよく手伝わせた
冬、ソリに練炭2ツを積んで配達した記憶がある
当時は大通りにアケードが無く銀杏並木であった
歩道の雪が消えていると前へ進めない
通り掛かりの大人が押してくれた事を今も記憶している
親は私に勉強の事は一言も言わなかった
そのかわり、命令ではないが、仕事の手伝いをよくさせられた
そうそう一番古い記憶の大通りにはアスファルトが無かった
馬車が行き交う記憶がある
プロパンが普及してきて父親は爆発事故が怖くて転業した(笑い)
気が小さい人であった
ホント
そして母親は古着屋、父親は行商に転じるのである
平成19年7月25日