サラリーマン時代
(社会人青春編)
神戸編
高校卒業が昭和40年である
初任給が1万円の時代である
所得倍増、高度成長に向う前である
私の就職先は社団法人、日本貨物件数協会神戸支部であった
「JCTC」ジャパン・カーゴタリー・コーポレーション略称「日検」である
輸出入貨物の検数の仕事である
要するに輸出入貨物の数を数える仕事である
扱う書類は英語と数字のみである
私に分かる訳が無い(真面目にホント)
しかし簡単な専門用語でそれは中学生1年生程度の英語力で足りる専門用語で馴れれば、
私でも心配は無かった
確か6ケ月間は、見習い期間で指導員と一緒に船の配置に付いた
そして
寮には同郷の者、そして
直ぐに打ち解け皆と気があった
寮には寮母さんが2人いて食堂兼サロンがあった
当時は高度成長期、我々は金の卵と言われた時代である
今思うに待遇は決して悪くはなかった
仕事の現場は日本一の荷扱い量を誇る神戸港である
兵庫突堤、中央埠頭、新しく完成しつつあったマヤ埠頭、そして沖のブイに停泊する船な
どに配置される
船には前後荷を積み込む幾つかのハッチがある
そのハッチに我々が一人ずつ配置され、荷物の数を数えるのである
世界への窓口、世界の情報、文化、頭脳、技能が工業製品に変えて集まる所である
殆どの品が梱包され中味は見れないが、兎に角色々な荷物が目の前を通過する
好奇心旺盛な私には結構面白い仕事であった
沖のブイでの仕事は、沖中士の船に同乗し本船に向う。
★沖の荷役に袋詰めのカーボンブラックの荷などがあった
この仕事は風の向きにより、下手をすると顔が真っ黒になり、先輩達が敬遠する仕事で、
新入生である我々が優先的に振り向けられる
★それと今ひとつ「ハイド」と言う荷があった
これは牛の生皮で、物凄く臭い
臭いだけでは無い、
初めてハッチに下りたとき、夏なのに白い雪が3〜5センチ程積もっている、しかもその雪
が、雲海のようにうねっているのである
白い雪の雲海である
ハッチ一面が真っ白な積雪で、その雪が緩やかな波のように、ボーッとうねっているので
ある
足を差し入れて分かった・・・・・何十万匹、何百万匹の蛆(ウジ)がうごめいているのであ
る
ギャーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・・・・・・・・声は立てなかったが
さしもの私も参った
オーストラリアやアメリカの牛の生皮が赤道を通って遥々運ばれて来るのである
船倉は恐らく40度前後の室(ムロ)なのである
増殖に増殖を重ねたのである
参った
体中に牛の生皮の臭いが染み付き、2日程取れないのである
電車などに乗ると、怪訝そうな目で見られる
そうそう、神戸はハイドから生産される靴やカバンの本場であった
★そうそう、行き先は忘れたが当時クギが輸出品にあったのを何故か今でも覚えている
今から思うに当時の日本の国力と円安が見えるようである
★それと冷凍船の輸入マトン(皮を剥いだ羊)も強烈な印象に残っている
何万トンの船一艘に何十万匹の首を切られたストリップ姿の羊の数を数える
カチンカチンに凍った羊のストリップ、その眺めは壮観であった
★ また神戸は山口組の本部のある所、荷役会社の中には山口組の子会社が何社もあった、
沖中士にもヤクザが沢山いた
仕事は神戸港に接岸する船の荷物の伝票数と荷役する品数が合数かチェックするのである
出航時期になると上屋(倉庫)、艀(ハシケ)両方から積み込まれる荷で戦場であった
★そうそう接岸した船に荷を積んだハシケが2〜30艘横付けになる
水上生活者である
珍しかったのは艀のトイレである
箱状の簡易トイレが船の先端に取り付けてある
そこにしゃがんで用を足すのである
若い人妻がそこで用を足すのである
我々は船の上から覗いているのであるが、上手に臀部を隠して済ます
あれはなかなかの芸当であった
ある晴れた日、そんな艀溜まりに鯖が沸いて、市民が大勢釣りをしている
それを想像したら、喰えたものでは無い(ホント)
40年経って、何でもつまらない事を思い出す
★ そうそう夜になると船員目当てのパンパンが乗船してくる
我々は徹夜が頻繁にあった、社員用語でオールナイトである
船室の窓は小さな丸窓である
船員も酔っ払って、たまにカーテンの隙間から中が見える時がある
そんな時は、仕事も何処へやら、右往左往夜が熱かった
オールナイトより上に原爆と呼称する徹夜用語があった
これは朝8時から翌朝8時まで更にその翌日の8時まで連続勤務の事である
さすがこれは若くて体力のある我々でも敬遠された
それでも月2回位は割り当てられた
★だから当時時間外手当を入れると2、5万〜3、5万平均3万円前後有った
しかも寮はタダ、食費を引いての金額と記憶している
昨今の初任給が10万としたら、今のお金にして30万円位である
チョイの間の安い女で、当時2500円であった
神戸は三宮、新開地などの歓楽街があった
毎日飲みに出た
給料は全て飲み代に消えた。
★当時アルバイト・サロンの略称アルサロの全盛であった
プロではなくセミプロの女性がホステスなのである
名前は忘れたが私と同じ
亭主もちの女性であったが、それでも毎日のように通い指名していた
若かったのである、一度もホテルにも誘わず、飲みにいって膝枕をして、耳ほじりをして
もらうのが楽しみで通った、記憶は定かではないが1年近く通った
馬鹿である
彼女の指名料金が4万5000円程貯まった頃、希望転勤で郷里に帰る事になった
正直に話したら、イイよ、転勤祝いと言ってくれた
忘れていたが故郷に戻ってきてからも時々どうしているか思い出していた
・・・・・・・・・・
★そうそう韓国船でのことである
船乗り同士が朝から激しく口喧嘩して、一時包丁まで振り回していた
同僚が止めに入り一時的に治めたが、しつこさは度を超していた、口論が7、8回ぶり返す
のである、夜に入っても口に泡を飛ばし口論していた
その時、韓国人とは喧嘩しては駄目と、当時強烈に思った事を思い出した
★ 寮の直ぐ近くに床屋があり、そこの新潟から来た女性がイロっぽいと評判で寮の者の半
数近くが通った
噂通り、胸の大きな色っぽい女性であった。
年なら20、3・4・5の独身の女性であった
髭剃りの時、胸が大きくてどうしても触れるのである
その床屋へは良く通った。
何でもいらぬ事を思い出す
★ 神戸にいたのが約2年、そうそう多分41年である、氷見高校が甲子園に来た
相手は
生家から5〜6軒しか離れていないM君が出場する
小学校時代近所の仲間と良く野球をしたM君である
隣のよっちゃんとMの従兄弟のM・Hも来た
よっちゃんとMが来る
当時毎日酒飲んでお金が無い
二人を連れて三宮に飲みに行くため、時計とギターを質屋に入れた
当時親の家にあったかなり高そうな時計を持っていて何回か質屋で出し入れしていた
金額は忘れだが二人を飲みに連れて行くお金が出来る程であった
二人は高校三年生であった!!!!!!!!!!!!!ホント
野球は大差の負け、しかしMは北角から痛烈な2塁打を放って幼馴染3人の声援に応えた
★そうそう鳥取出身のI君が地元の女子高生2人を引っ掛けた
その一人とキスしたのが、生まれて初めてのファースト・キスであった
その女子高校生も初めてであった
合意ではない、唇を奪ったのである。ムムムムムムムムム深く反省
寮の裏にあった貯水池付近の山道の出来事であった
筆おろしは、高校卒業前、既に名古屋で経験済みであったが、女子高校生にそれ以上は求
めなかった。度胸が無かったのである・・・・・実は雨上がりで草むらが濡れていた
彼女にはそれが幸いした
!!!!!!!!!!!ホントの話である
I君は会社を辞めて郷里に帰ったと聞いた
単純、明快な男であったが、いい男であった。どうしているやらと懐かしさで心が疼く
★そうそう思い出した
神戸の港湾労働者はかなり左翼がかっていて当時社会党の勢力が強かった
会社の組合幹部も相当共産主義に被れていた者がいた
だから春闘などに赤旗が会社の正門横の通路に堂々と掲げられてあった
我々新卒の新入社員は簡単に色に染まりやすい
とりわけ、無節操で、好奇心が強く、変な正義感がある自分です。
強烈ではないが、好奇心が一杯自分から染まりに、会社内の組合に足を運んだ記憶がある
記憶は薄れたが、当時私の精神世界に政治色が入り込み、それが本を読むきっかけを作っ
たように思う
だから、歌の題名はわすれたが、「聞け万国の労働者、轟き渡る・・・・」の勇ましい労働
歌が時折今も自分の口から衝いて出る
阪神大震災の時、自衛隊の出動が遅れた要因は、その時代からの社会党と自衛隊の深い確
執が起因していると、今でも思っている
勿論、震災当時の首相は社会党村山富一である
そして土井たか子は兵庫県選出であった
阪神大震災が1995年1月17日、約12年が経った
その時、私は「寶」本の壮絶な戦いの真っ只中であった
・ ・・・・・・・・・・・
当時「大漢和辞典」が欲しくてならなかった、その辞典さえ妻との微妙な空気でその要求
を出せずに飲み込んでいた・・・・・・。
お金に対して異常な執着心のもつ妻に初めから無駄と諦めていたからである・・・・。
神戸は社会人として、また自分の青春の第一歩を踏み入れた土地である
今も駆けつけられなかった事、子供騙しの義捐金しか出せなかった事、私の心の傷となっ
ている
来年は必ず諸々の思いを胸に、思い出の神戸を訪れるつもりである
・・・・・・・・・・・・・・
また神戸の芦屋の「○○○薔薇事件」なども、私に取って他の人より身近な事件として今
も心に残る
・・・・・・・・・・
★そうそう、どうしても記しておかなければならない事件がある
それは40年の12月の事である、歳末一斉警戒の頃であったが日付けの記憶は曖昧であ
る???????
三宮の歓楽街で大立ち回りをして警察の留置所に2泊3日泊められたのである
その事件は●●ここをクリックして戴ければ全容がでます
この紙面では皆さん読み疲れると思うので分けました
神戸にいたのが僅か2年である
働いたお金は全てアルサロに使ってパーである
おまけに、魚津出身のホステスに4、5万ロハにしてもらって帰省した
全く何も分からぬままの、ガキそのものの自分であった
神戸にいた時一番迷惑をかけたのは、寮で同室であった●井君であった
四畳半、半分づつがお互いの領域である
2、25畳は本酒ゴミで散乱・・・・・・・・・窓から小便するわ・・・・
毎日毎日遅く帰ってきて、ヘド吐くわ・・・・・!!!!!!!!!酒飲んで起き上がるのが面倒くさく
て
寝小便するわ!!!!!!!!!!
メチャクチャである
彼は私には足投げ出して、背を向けて寝ていた。
彼だから我慢してくれたのである
40年経ったが、深く謝罪したい
彼と同室になった事は私に取って幸運であった、しかし彼にとっては完全な災難
彼の性格なら、どんな変人奇人とも仲良くやっていける(ホント)
私が太鼓判を押す
この原稿を添削してもらっている事務員も、この話と、現在のこの部屋を見れば、自慢で
はないが納得であろう(笑い)
彼は会社を辞めていない。20年ほど前、その彼が私に会社を辞めて郷里の会社で再就職し
たい旨の相談に来た事があったが・・・・・事情は年老いた親の問題であった。
とにかく今年で定年の筈である
おめでとう、ご苦労さまでした・・・・・!
兎に角、神戸での約2年は私にとて貴重な年月であった
花の高校時代の、延長線のような刺激的日々であった
指導員の東田さん、山口水産高校卒の皆、ありがとうを述べたい
この回想録を書いていて40年前の事であるが、昨日のことように思い返される
書きたい事がまだ山程ある神戸時代の2年間であるが、いずれ機会もあろう
今年中に何とかこの「承禎の熱風録」を書き上げたい
HP過去の読書の中に載る、著者河野守弘「個性の磨き方、貫き方」そのものの2年間であ
った。一昔前、著者の大ファンであった。生き方が、私そのものが書かれてあり3、4冊は
読んだ
正に無茶苦茶の体験も、後になって何かの勉強になっている、40年前を振り返っての実感
である
★そうそう最後に日本一の神戸港で働いて、世界を身近に感じた事は大きかった
今でも世界地図を見て、港の名前を指で辿る時がある
以上サラリーマン生活第二部、伏木支部編に移る
平成18年12月8日