私の読書
このホームページの「私の趣味」の所で私の趣味は仕事と述べた。
趣味は死んでから思いっきりすると述べた
そして前の「読書と私」の所で過去5000冊以上、読んだと書いた。
それ程、読書する人間は、他人からみたら読書が趣味と映るであろう。
しかし私は違う!私の読書は、私が生きるため!飯を食うため!生活の為!仕事の為に読むのである!
人は生きるため胃袋に食物を送り込む!それと同じように、脳を働かすための最低限の知識、
生きるための、時々の最新情報を脳に送り込む! のである
ですから、悲しいかな私の過去の読書には文学書が殆ど無いに等しい
殆ど無いといつても、三島由紀夫や芥川龍之介・森鴎外などに多少迷い込んだ記憶はある
「寶」本執筆は、元々お金儲けが目的で迷い込んだ世界で、執筆の為に読み漁った参考文献や、
関係諸本は、仕事目的なのである
「寶」本執筆のため5往復し調べた大漢和辞典は、恐らく何百冊の本の量に匹敵するであろう
子供時代、怪人二十面相の本に熱中・サラリーマン時代読よんだ記憶は、詩集や推理小説他、
サラリーマン小説などであった、源氏鶏太の本は富山県出身という親近感もあり、シリーズを
殆ど読んだ
神戸時代・時々古本屋に足を運んだ思い出がある。
(絶版となり定価より高かった石川啄本の歌集は、昭和41,年1000円であった、高卒の初任給が
1万円の時代だから今なら1万円である、啄木研究家ならその本は貴重で40年4回の引越しにも
私の手元にいつもあった、3年に前、友人に差し上げた)
私が真剣に本を読まなければと !思い至ったのは、確か自営の道を進んで7・8年経ったころで
今から約20年前のです、全てに行き詰まりを感じ、これでは到底家族を守れないし、長い人生を
乗り切ることが出来ないと気づいたからです、
世の中の仕組みというか、自分の生きている位置が分からず、極度の不安に襲われた
その時の心境は丁度、スプリングのバネが伸びきった状態 !! 汲み上げる井戸に水が無い状態
!!!!盲目が雑踏の中を歩いている状態!に感じた!
その頃、私の中学の同級生で、県下のトップの進学校に入り大学を卒業した、青年実業家のA君
がいた。逆立ちしても勝てない彼ではあるが、私は仕事の上で密かなライバル心を燃やしていた、
その彼が一日1冊読書を己に課している!と打ち明けられた時!私は衝撃を受けた!
只でさえ見えない程、先を歩いている同級生の中身と速度が違う
ライバルと思うことすら恥ずかしかった・・・・・・・・
私は家計の貯えを頭に浮かべつつ、数日後意を決し、古本屋から本を買い込み、阿修羅の如
く本の世界に突入していった、1日7冊を目標に、1年殆ど休業状態
なるべく系統だてて、読もうと自分なりに考えた
最初にお釈迦様が何を説いたのか?仏教とは何か?!そして日本の文化に影響を与えた中国の
書物・老子・荘子・司馬遷の史記・韓非子・その他・宇宙・量子物理学・フロイト・その他の
心理学・そして近代日本へ舞い戻り・日本の政治・経済・文化・国防・その他諸々・締めくく
りが当時・経営者必読のベスト3吉川英治の宮本武蔵・山岡壮八の徳川家康全巻を読み大菩薩
峠は1巻途中で放棄・・・・で終わった
徳川家康は1巻1日約25日間程で読み終えた
一年で2000冊以上を乱読、舐めた(読んだのではない)計算になる
その間事務所後ろの部屋には絶えず50冊以上の雑本が傍に積まれていた
殆ど泊り込みであった
大菩薩峠を投げ出したとき、本よサラバ、もう打ち切り、もう動かねばと、無意識の底か湧き
出た不安衝動を、今も鮮明に記憶している
飯を食わねばならぬ
本能が目覚め、ヤバイと黄色の信号が点滅したのである
本よサラバと現実に戻り仕事に復帰した。それから1年程経って、図書館へ出かけた
頭がクラクラし吐き気を催したのを鮮明に覚えている
容量の小さい脳みそに、詰め込み過ぎたのである
食べすぎ、
子供の頃から、体が小さいのに早食いの大食漢であった、
脳ミソと違い、胃袋は昔から大きかった
理由は子供の頃、栄養失調児であった事も起因している
そのせいか、腹が空くのを、極度に恐れる
飯が食えない、仕事が無い!お金が無い!そんな状況になるのを、恐れるのである
だから、本や雑誌などで絶えず新しい情報を入れないと不安になる
ようは貧乏性なのである
三日前、指の骨折で市民病院へ行った
ロビー待合室で1時間程待たされた、ロビーには50人以上の外来患者がいたが
漫画の本を読んでいた若者が一人、あとは誰も本を読んでいなかった(持参している様子もない)
そんな光景を見ると私が変人なのかと、不思議な思いに囚われる、勿論私は今月の読書にある
堺屋太一の「平成三十年」を読みかけていた。
私の、一番の憩いの喫茶店は朝のトイレである
トイレには小辞典、カタカナ辞典・雑誌、メモ用紙、筆記用具、地図・ツボを刺激する小道具、
その他がある、私は食事の後、コヒーをもって朝30分近くくつろぐ、
新聞はトイレが狭いのと、朝が早いので既に読み終えている。
酒を飲む時間は惜しまないが、兎に角、時間が惜しいのである
脱線したが私の読書は生きる為、食う為の読書であり、教養とは到底言い難い
しかし学生時代私なんかより遥かに勉強ができて、大学を卒業してきた人間が、意外な程本を
読んでいない。
思考の停止状態、それでいて過去の格差で見下されると、敬遠しかない、
私が歴史小説を読むのは、歴史は繰り返される、であるからである
賢者は歴史に学ぶ、と竹村健一氏が言っていた。
過去の賢人は、将来や未来を予測したいとき過去を見るのである
たまに知人やお客様の家に行くと私はその家の本棚などに目がゆく、どんな本を読んでいるか
興味が沸く、一冊の本も無い家庭もある、私には信じられない光景である
長い間の友人でも、本を読んでいない人とは、遠くなる
思考の幅も、深みもなく、解決策も常識的で、打開策も浅い、悩みを打ち明ける気が失せてし
まうのである
毎朝声を掛け合う、近所の社長で自宅に図書館ほど本を持っている人がいる
会話しても実に楽しい
話に広がりがあり底が深いのである
氷見変人コナーで紹介した篆刻の児島先生も家が潰れるのではないかと心配するほどの蔵書
である
私の祖父は、貧乏をしていたが、壁に板を打ちつけた本棚に分厚い本が、並んでいいて
時々読んでいたのを、記憶している。
だから、そんなに本を読むことに苦痛は無い、
私からは本を読んでいない人が、異邦人になつて見える
良く不安も、心配もなく生活できるものだと、感心する
貧乏性の自分からは、みんな余裕があるんだナーと感心する
会社人間は忙しいのか?それとも組織が守ってくれて、必要ないのか、兎に角不思議です
何時の日か、文学小説でも読むような、余裕が欲しいと願うが、来年も叶いそうに無い。
人生の終盤に向けての、準備が遅れている、
来年1年で何とか取り戻せないかと願っている
以上私の読書は趣味ではなく生きる為の糧なのです。
だから忙しくて人より退屈しないことだけは間違いない
来年は「寶」本の中国へ是非旅行したいと願っている
平成16年12月19日