「寶」解明の序曲(十)

 

私はセッカチ、かつ執拗な性格である。

蓑館長そして富山県中央研究所、九谷焼研究所の鑑定調査は終えた。

それでも私は,念に念を入れたかった。

数日後、以前から面識のあった小矢部の西田文兆堂の主に電話を入れた。

西田社長は、国立博物館の矢部氏が監修(かんしゅう)した全国の有名骨董店の本にも紹介され、()(ちょう)

関係では日本の、若手の3本の指に数えられる程の人でした。

西田社長のセリ市は当時全国から骨董商が集まり、会員2名の保証人と骨董商の鑑札が必

要であったが、私は知人の宗久庵の紹介もあり例外として何度も出入りをさせて戴いていた。

電話で鑑定して欲しいのは中国の陶印と告げると、“陶印など日本にあるの”?!“文献

自体殆ど無い”。

“是非拝見したい”との即答で、私は小矢部へ車を飛ばした。

西田氏は「寶」を見るなり、即“焼成不可能”と蓑館長と同じ言葉を発した。

更にこの品は“中国政府に返還しなければならない程の品物”と語気を強めた。

そして西田氏は、「私は高校の窯業課を卒業してきたので、焼き物を実際に焼いてきた」。

「このような厚手でしかも方形の焼き物は、(ねじ)れるか爆発するかで、焼成不可能と再度

言い切った」。

私はこれで韻文、陶印、陶磁器部門の調査段階をほぼ終えのである。

いよいよ漢文化4000年の大海原に乗り出すのである。

 

平成19225