京浜工業地帯生みの親 浅野総一郎である。そのため,総一郎は京浜工業地帯の生みの親といわれている。 がら成長した。 た。後に横浜へ移り,みそ・しょうゆ屋へ奉公した。そのころ,もち菓子やすしを竹の皮に包んで売 ることに目をつけ,竹皮屋を開業した。 先を得て成功する。このおり,渋沢栄一に認められたことが,大事業家として成功する大きな転機 であった。 衆便所を設置して,その人糞処理の権利を得,肥料として売りさばいて大きな利益を上げた。 げてもらった。この工場の経営改善と資本投入により,販売実績を大きく伸ばすことに成功した。こ の会社が後の浅野セメントで,浅野財閥の基幹産業となった。 ようになった。 |
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<写真は建設中の浅野造船所> |
して回った。彼が目にしたのは,海に面した地域には大工場が立ち並び,岸壁には船が横づけさ れて,原料や製品の積み下ろしが能率よく行われている光景であった。これを見て総一郎は,臨 海工業都市が今後の日本経済の発展に必ず必要になると確信した。 い鶴見の海岸を最適地として選んだ。 大工事のため県は難色を示したが,安田財閥の安田善次郎の協力を得て大正2年(1913)によう やく着工,昭和になって当初予定の埋立地が完成した。 の銅像が立っている。昭和5年82才で亡くなった。広大な墓所が総持寺にある。 <写真は浅野総一郎の銅像、 右手にステッキ、左手に望遠鏡、 |