臨海工業地帯に着目
総一郎は明治29年に海運業に進出し,航路の選定と汽船発注のため,欧米の港湾都市を視察して回った。彼が目にしたのは,海に面した地域には大工場が立ち並び,岸壁には船が横づけされて,原料や製品の積み下ろしが能率よく行われている光景であった。これを見て総一郎は,臨海工業都市が今後の日本経済の発展に必ず必要になると確信した。
帰国後,東京と横浜の間の海岸を何度も調査した結果,交通の便がよく,遠浅で埋め立てやすい鶴見の海岸を最適地として選んだ。
明治41年,神奈川県に鶴見・川崎の地先約140万坪(457万m2)の埋立計画の認可を求めた。大工事のため県は難色を示したが,安田財閥の安田善次郎の協力を得て大正2年(1913)にようやく着工,昭和になって当初予定の埋立地が完成した。
総一郎は教育にも関心を寄せ,大正9年に子安台に浅野学園を創設した。この台地には総一郎の銅像が立っている。昭和5年82才で亡くなった。広大な墓所が総持寺にある。
<写真は浅野総一郎の銅像、 右手にステッキ、左手に望遠鏡、
<ポケットには地図が入っている>
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